「 あるヨギの自叙伝 」と「 成功の実現 」等口述書との比較考証 ( 欲と危険性の観点から )

 

天風哲人の口演録をまとめた口述書も・・エネルギーがとても高い、高次元のもの・・というのはあるかもしれませんが・・

 

 純然たる求道者向けの「 あるヨギの自叙伝 」に比べたら世俗世間一般のコンセンサスを得にくいというほどの内容ではありません。

 

 カバー範囲が広いです。

 

欲に対する考え方ということで考証してみると

 

 

ごくごく一般の人が抱くであろう素朴な欲や関心事に対して

 

 天風哲人の口演録をまとめた口述書においては、そういった欲を捨てよ・・とは決して語っていません。

 

 

 

 

 

色んな欲は、別に罪悪感を持つ必要もない・・進化のプロセスで、そういうのが遺ってるのが人間なんだから
そういう慾に向き合いつつ、ちょっとずつでいいので他人を( その言葉や行いで )喜ばす・・
心を善化、霊化せしめる高級な楽しい欲と・・その欲を駆動力にした言動、振舞いに振り向けて燃やしていったらよい・・って言ってるとこがあります。

 

 

 

 

 

ただ・・中村天風という御方は、もう極から極に振れる生涯を送ってまして
私から見ると生命の器が巨大すぎるので、内省的で思索タイプの方は、少し戸惑うかもしれません。

 

その生涯がいかに極から極に振れてるか?その実例を挙げるなら

 

 

 

 天風哲人は、大名の孫の出自だったのに軍事探偵になり、死病をきっかけに求道することになって‥
世界的権威のお医者から、40歳まで持つまいと駄目だしされ
それで病は無理でも心だけでも立て直したいと思いアメリカの自己啓発作家に尋ねても、絵に描いた餅のような答えで駄目・・
医者が駄目と言っても、医学を学んだら心のことや体のことも含めて救いの道があると思い
通訳兼アルバイトも兼ねて代理受講でコロンビア大学で基礎医学を学べど、当時の医学で結核に対する治療法がないことを知り絶望し
医学では、どうにもならない・・
せめて心だけでも立て直したいとヨーロッパの名だたる著名人や先生に尋ねても、どうにもならなかった。
そういう挫折に次ぐ挫折を繰り返し諦め果てて日本に帰る途中で聖者に会い

 

インドの山奥に行って修行することになったことは、自叙伝をご存知の方は、ご記憶に新しいと思います。

 

( もう、こんなとこに行ったらお金は何の役にも立たない・・裸一貫です )

 

 

そこでは、奴隷の身分でして・・動物よりも下の最下層の身分に落とされ、
額をこすりつけて土下座するような立場です。 
( 外国人の立場ですから奴隷の身分で行かないとヨガの里に入れなかったらしいです )

 

 

そこから、修行を終え、山を下り・・縁もあって辛亥革命に参加しますが

 

 

このときには、孫文の側近になったことで今度は王侯貴族も味わえないような生活をしてます。

 

しかし革命が頓挫し上手く行かなかったこともあって、
日本に帰国後、しばらくして頭取として銀行経営をし、別荘も6〜7つくらい持って社会的名士として活躍し、豪勢な生活したかと思ったら

 

 

 こんなんじゃいけない・・と思うとこがあって、銀行の頭取をパッと辞めて

 

また裸一貫から、その命を燃やし

 

 

銀行の頭取してた方が、いきなりモンペはいて、おにぎり2個を奥さんから握ってもらって、大道芸人みたいなやり方で、上野公園とかで辻説法しつつ
´一般化´のための研究研鑽をし始めるんですから・・

 

 

 

    とにかく、命が伸びやかで無碍自在・・豪快でスケールの大きな方です。

 

 

 

 

スケールがでかくって豪快なので・・

 

 

 

 

私のような内省的で思索タイプで瞑想とかが好きな方の場合は、呆気にとられる方もいらっしゃると思いますが・・

 

 

 欲を4つに分類し、いろんな欲を無理に押さえつけるのではなく、欲望を制御する・・という一つの方法として

 

 本能的欲求やらは、貪りにならぬよう足るを知るで適度に満たしつつ

 

そのなかでも燃やして満たせば満たすほど後味の良い・・

 

静々とした高品質な喜びが増していく霊性満足的な楽しく高級な欲望はどんどん燃やし実行して
そっちの欲のほうに、ちょっとずつ欲の転換をしていったらよい

 

 いろんな欲を自分の言葉や行いで他を喜ばせたったる気高いことも、まあ、たまには考えて、そっちのほうに少しずつ大いなる欲を転換し、
そっち方面に大いなる欲を燃やし日々の行動を振り向け燃やしたらいいんだ!小さくまとまるな!
と言ってるようなとこもあります。

 

※純然たる求道を探求するような方や内省的で思索タイプの方は、
こういうあくの強さやスケールの大きさ・・伸びやかな大らかさ・・懐の深さに少し退き気味になる方もいらっしゃるかもしれません。

 

 

その一方で、口述書を詳細に研究すると熱心に心身統一行法を行じてたら、
( 本能心由来の )度外れでわがままな欲は出難くなり
日にち毎日を、しみじみとした感謝に溢れ、のんびり安心した喜びで過ごせるようになるとも述べているので

 

 

「 あるヨギ 」に比べたら庶民の素朴な欲や気持ちに、寄り添ってると言いますか・・
で抵抗なく入りやすいはずです。

 

 

さらには、自分の欠点や悪習と闘って内面的に向上しようという欲に対しても
「 成功の実現 」等の口述書は、そのニーズを満たす行法を緻密に組み立てています。

 

 ( これは、私自身が実践してる最中に感じたことなんで拡大解釈してるかもしれませんが )

 

 

もっと内面的に向上し、よりよくなりたい・・という欲についても、それを支える三勿( 恐れず、怒らず、悲しまず )と
三行( 正直、親切、愉快 )の綱領もあって、それを守るための実際法も定式化されてるくらいですから。
( 詳しくは、「 成功の実現 」参照 )

 

 

 

 

それに対して「 あるヨギ・・」の場合は、世俗のことにあまり関心がない・・

 

あるいは、卒業し、魂の自由を目指してるような方が、
一層精進したい場合に、必要なもの・・より純粋で基準の高いもの・・というようなとこがあります。

 

私自身が理解した範囲では・・

 

 

 

 

 

 

次に、進化向上に向けた実践項目の容易さや的確性、その確実性・・さらには安全性について述べてみます。

 

 

 

 

 

先ず、第一に言えるのは、天風哲人が薦めてることは、実践が容易で
どうしたら心(身)を積極に尊く清くできるか?という方法が明確で確実に出来ることばかりです。

 

 

 

もちろん「 成功の実現 」等の口述書だって、そこに記述された内容には
第6章の「 われとは何ぞや 」といった相当に高次のものを含んでいて
いきなり、ここだけを切り取ったら・・こういう分野に見識のある人は、ごく当たり前のこととして、すんなり受け入れられる人もいますが

 

 

何らかの素養や背景のない方の場合は理解不能で
人によっては価値観を共有するのが困難で、よっぽど信頼されて実績を作ってないと
( 全くそういうのに理解のない人に )は受け入れられない内容も含んでいるのかもしれません。

 

 

 

しかし

 

 

そこはさっぴいても

 

 

 哲人が薦めている幸福のルールに沿えないこと・・それが出来ないことによる煩悶
のリスクや、それによって心が弱る危険性も・・限りなく低いと思われます。

 

 なぜならどうやったら、そうできるか?出来ない原因や人間の弱さや浅ましさにも寄り添う形で
 現実的向上を目指す実際方法として緻密に組み立てられてるからです。

 

 

 

 

 

ある意味、高尚で立派なことを言うだけなら簡単です。

 

 

 十代後半〜20代後半の頃、私は、形而上のことも深く体得したいと思い非常に高邁で純で高尚・・
とても立派なことを書いて、理論も高邁っていう本にふれ読みまくってたこともありまして
( どういう書物群だったか、みなまでは書かないけども

 

スピリチュアリティの高い書物群を漁りまくり読みまくった経験があります。
ちなみに、そのなかにバイブルや仏典も含まれてたりします。

 

口述書の実践を経て統御が容易になっていったので、こういう聖典も再度学び直してますけど )

 

 

でもって、そういうの読んで感動したからって

 

そういう生き方にすぐに沿えるわけでもない・・

 

 

生真面目に取り組んでも、そうできない自分をなんで出来ないんだと理性が責め立てる・・
それで、また悩み苦しみ擦り減り悶える・・
そういう心内の果てしない闘争、相克状態に悶絶し、心が弱くなり暗く深く沈み込むようになってたことがありましたんで。
それに呼応するかのように体も虚弱に拍車がかかってたような気がします。あの当時・・

 

 

 

 

ちなみに、今は、風邪をひくのは数年に1回くらい・・
ちょっとした微熱程度の風邪なら、別に薬も飲まず非医学的方法で冷水行で気合で治すというようなとこがあります。
( ←よい子は真似しないようにお願いします )

 

 

 

 

 

そういうのを考慮してみても、とにかく、この御方の方法は、そうなれる実際方法が段階的かつ積算的に詳細化されていて

 

何に集中すればいいか実際法が明確で・・

 

これだけやってりゃいい・・という思い切りの良さみたいのもあった・・

 

 

それに・・人知れずやれるものばかり・・です。

 

 

 

 

  だけども、「 これだけやってりゃいい 」ってことに打ち込んで集中してやってたら

 

  信じなくても、あれよあれよと心や体が作り替えられて、気持ちを張らせる何かが流れ込んで
 実際に、心が恐れず、怒らず、悲しまず・・で気持ちを張って強く持って行くことができるようになっていったので・・
 もう、それが嬉しくて、急速に、調子の良かった頃の感覚や自信も取り戻していったのを朧げに覚えています。

 

それに付随して虚弱性に陥っていた健康も、じわじわと薄皮はぐように変わっていった事実があります。
( だからと言っても、やっと人並み程度になった・・という程度ですが・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに、心身統一行法を熱心に実践したからといって危険性はないです。

 

( ご存知の方は、ご存知のように )高度なヨガの中には独習が危険なものがたくさんあります。

 

 

座禅ですらリスクがある。

 

 

これについては出家した方ですら座禅なんかの修行で気が狂う方もいるというのは、よく知られた話でして

 

 

鬱屈した感情を長く抱えてる方や食生活や身口意を含めて
生活が素朴でない方が、いきなり、座禅に取り組むと今まで自分の深層意識の奥深くに抑圧していたものが

 

急に表面意識に出てきて制御する術を知らず、人によっては、おかしくなるというケースは

 

一般人ならわかるけど厳しい修行を経てきた雲水ですらも、そういうことは、起こり得るとされています。

 

確か明恵上人なんかも、そのことを認めていたと記憶してる。

 

 

高僧として名を知られている白隠禅師ですらも神経衰弱に陥り肺もおかしくし狂う一歩手前だったし

 

 

 

( 禅師は、立派な弟子を沢山育成した方なんですが )

 

 

 

それでも、お弟子の中には狂った方も相当数にいたと聞いています。

 

 

 

 その点、心身統一行法は、( 体験上 )いくら熱心にやろうと、そういう危険性は全くありません。
 それは私が保証できます。

 

 ( 会に入ったわけでもなく、ここの会の主催する修練会に参加したこともない独習ではありますが )

 

  長年研究し実践してる経験から断言できますから。

 

 

 

このように一部、高次の内容は含んでまして、考えてわかるような領域じゃないとこを扱ってもいるんですが・・

 

 

 

 

リアリスティックで現実生活のなかで向上を目指す・・実に安心安全、無難で大らかなで地に足が着いた方法であることは間違いありませんから。

 

 

 

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