「 あるヨギの自叙伝 」を´浄玻璃の鏡´として自己分析に用いインスピレーションを得る方法

 

人間の欲と自己分析の凄い力

 

 

 

幸せというのを突き詰めていったとき

 

人は喜びに満ちたいわけで、苦しみたくはないですよね。

 

基本的に満足し喜んだ時に幸せを感じます。

 

 

じゃあ、どういうときに人は喜ぶかと言いますと

 

突き詰めると

 

欲が満たされたときに喜ぶということになるでしょう。

 

 

ただ・・ここで大きな問題がある・・

 

 

なぜなら欲にもいろいろあって

 

 

あれがあったらいい・・さぞ満足で、もう何も要らない・・もう十分だと当時思ってた欲を、
いざ満たしてみたら、それでは満足できず、さらに欲しいという欲が沸々と燃えてくる・・
ということになって満たしても満たしても不満が解消できない際限がない欲もある。

 

 なかには一時的には欲が満たされて、その刹那は満たされるけども、ある時間を経た後で、
ああ・・ああいうことするんじゃなかった・・

 

なんで欲に駆られて、あんなことをしたんだろう・・といった・・

 

後で気が咎め、後ろめたくせしめ自分を責め心をかきむしる低級我由来の欲(念)もある。

 

 

こういった欲を満たしていった場合は・・ふとした拍子にそれが思い出され、実在意識に、それらが踊り出てくるたびに
慙愧の念に駆られ生命進化と心の純化に反した欲
言い換えれば
魂に付属する本心・良心の指向性に反し長い目で見ると本人を苦しませ後悔に苦しむ
低級な欲念・・と言えるでしょう。

 

 

 

 

その対極の欲(念)としては

 

( 一時的には苦しい場合があっても )

 

着実に取り組んで、その欲を満たしたら
後々まで、その喜びが続き、思い出しても心に深い静かな喜びの広がりと滋味を与える・・向上欲や分かち合いに根差した清々しく楽しい高級な欲念もあります。

 

 

 

そういう欲( 欲念 )の性質を踏まえて

 

 

楽しく清々しい欲(念)を見極める以前に

 

 

このページでは喜び満たされる欲について自分自身と( 下腹で )向き合って抱く欲や自身を分析すること・・

 

自己分析で力を得る方法について概略説明し、
深いところを癒し葛藤を鎮め心を調和せしめる手順について簡便な方法を述べていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、前置きはこれくらいにして、本題に入りますが

 

 

 

 

 

 

そもそも、なぜ?自己分析に私がこだわるかと言いますと

 

 

 

 

自己分析をしない人は、環境にただ、反応させられるがままで、
ただ機械的に動いてるロボットと同じで進歩や改善の余地がなくなると感じてるからです。

 

 

自己分析は案外難しい理由

 

ただ、そういうのを理性や理屈で知ってても

 

自己分析は、万物の霊長として進化するための凄い力があるというのを重々分かってても

 

 

理屈はわかってても・・「 自己分析 」は簡単そうで案外と難しいです。

 

なぜなら、自分で自分(の心の内面の癖、思い方の癖、関心事)をわかろうとしても、
「 何か対照とさせる基準や指針となるもの 」がなければ自分というものが、実はあまりよくわからないからです。

 

 

ですので自身を掘り下げ日々の言動・・振舞いを炙り出し分析できる

 

「 鏡のようなもの 」も自己分析に必要になります。

 

その鏡のような役割を果たしてくれるのが「 あるヨギの自叙伝 」という本という位置づけも出来ます。

 

 

ヨガナンダという正真正銘の聖者の目を

 

 

「 中継基地 」「 仲介 」「 真っ新な矯正レンズ 」にすることで

 

自身を内省する。

 

 

これが3つ目の私にとっての「 あるヨギの自叙伝 」の効能書き・・という位置づけと言う事が出来ます。

 

 

 

なお

 

 

価値観の押し売り、押しつけになったらよくないんで・・

 

私にとって・・というのを、さらに強調しておいたほうがよいかもしれない・・

 

それと人間不幸のはじまり(の一つ)は見えざる造り主( サムシンググレート )とのサーキットが切れたことだと思う・・
というのも私が十代の頃に漠然と感じてたことで、押しつけになるかもしれないんで慎重にコメントしないといけないことなわけですが・・

 

造物主( サムシンググレート )について知る・・切れて見失ったものを再発見し体験を積み重ねるというのが大事だろうというのも

 

別に高度な知性やとてつもない哲学がないと大事な事だと知ることができない・・というわけではない・・ですよね。

 

 

そんな知性なくってもシンプルな考え方と言うか・・素朴でよいと申しますか・・

 

 

 

別にヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題とか解く高度な知性が必要なわけじゃない・・

 

 

どう理論理屈をこねくり回しても

 

 

 

私たち人間っていうか人類は

 

 

あれれ・・気が付いたら、おいら人間だった・・

 

そういや生きてるよね・・って存在ですよね。

 

 

 

 

ふと気が付いたら目が2つあるし、腕が2本・・

 

鼻の穴が2つ・・口が一つ・・耳が頭の両脇にくっ付いてる・・etcってな具合に・・

 

 

自分で・・じゃあ私は、目が6つ欲しいからって自分で造ったわけじゃない・・

 

 

 

もしそう出来るなら目が6つついてるはずです・・・でも・・付いてたら怖いでしょ・・(;^_^A

 

 

自分で頑張って心臓を動かしてるわけでもない。

 

要するに気がついたら、そうなってる・・そういや生きてるっていう「 存在 」なわけで

 

生きてる命を活かすのに命を命たらしめた原因的な存在であるサムシンググレートの意向や願い・・
目的から外れていったら、その本分やその性能を活かせなくなるのかもしれない・・
と考える見方があってもよいのでは?という提案をしてると言ったらよいのか・・

 

 

 

 

 

なので

 

時代が追い付いてない感がすごいけども(;^_^A

 

こういう正真正銘の聖者中の聖者の眼を借りて

 

 

サムシンググレートの意向や願いみたいのを、聖者中の聖者の感性

 

眼や耳、拓かれた高級感覚を貸してもらって

 

裁いたり、自己弁護したりせず

 

知るための助けにしてると言うことです。

 

 

 

 

 

なぜ?「 あるヨギの自叙伝 」が、浄玻璃の鏡のような役割を果たせるか?

 

では、この本がなぜ?欲望や満たされない感情の点検や関心を持ってる事、
日々の振舞い、言動等を鏡のように・・・少しひき気味にし少し離れた場所から、大きな流れの中から自分を眺め映せて淡々と内省する指針や基準になるか?

 

そうして、そうすることで自身を見つめ直しインスピレーションを得るきっかけになるか?その理由について述べてみます。

 

 

その理由の一つは

 

 

「 あるヨギ・・」の各章を彩る主要登場人物の関心事が

 

ズバリ・・「 世俗的な野心や関心事からかけ離れたところで生活してる 」からです。

 

 

 

 「 あるヨギの自叙伝 」に出てくる主要登場人物たちの欲望や関心事というのにフォーカスしたら、すぐにおわかりのように

 

 

 

( 主要登場人物の脇を固める脇役はさておき )

 

 

 

 

 この本の著者のヨガナンダ( や本書に出てくるヨガナンダが会いに行った主要登場人物たち )は、

 

 

はあ??ええっ!!ほーー

 

あなたがたは、世俗的なこと・・

 

社会通念上で世間一般の方が欲しがるようなことに興味や関心が全くないのですか?

 

ってくらい本書には、そういう類のことは出てこないです。

 

 

一般の方が持ってる世俗的野心と申しますか・・関心事

 

そういうのに熱がない・・

 

 

俗世的なものとはかけ離れたところに強い志と欲があって

 

そういうの・・見向きもしてない生活を心がけ、そういう実例と実績であふれている。

 

 

淡々・・中立的に、科学者的視点で、お読みいただければお分かりのように

 

 そういうのに対する熱が氷点下以下というか

 

そういうのに対する熱量があまりにも低いと言えます。

 

 

それゆえに、自身の動機や欲念を照らしやすいというのがあると視ています。

 

 

 

 

もちろんこの「 あるヨギの自叙伝 」という書の攻略は、身近でないため難しいです。

 

 

 

 

一筋縄ではいきません。

 

それは間違いありません。

 

新しい段階のものなのでしょう。

 

 

 

ですが

 

 

あまりに感覚的なものにドップリつかって、いっつも同じこと考えて、同じことやってても、類友の原則で
周りも似たことをやってる方ばっかり・・(;^_^Aということになると「 自己分析 」をする力を得られません。

 

 

いずれにしろ、日常に埋没してると

 

  新たな感動も、内的進歩への意欲も得にくいわけです。

 

 

 自覚も省察もしようがないわけで自分と静かに向き合って、一歩引いた視点で自身の心の内奧やその動きを探索し、

 

その欲望の種類や欲の強さの程度や関心事の点検、日々の振舞いの点検なんて出来るはずもない。

 

 

そういう理由から、この本は、人によっては、これまでの生活で振舞ってきた・・
その一挙手一投足を澄んだ水晶のように映し出してハッキリ照らして見せる「 浄玻璃の鏡 」みたいなものとして働き、感覚的なものとうまく付き合い本然の自性と言うべきか仏性的なものとのバランスをとるきっかけを得ることもできるということです。

 

 

 

「あるヨギの自叙伝」を使った自己分析とセルフヒーリングによる自己進化法

 

 

 次に「 あるヨギの自叙伝 」を使った自己分析とセルフヒーリングの方法について述べてみます。

 

 

 

この方法を行うのに必要なものは、「 あるヨギの自叙伝 」という本
A4の用紙

 

鉛筆またはボールペンのみです。

 

どうするかと申しますと

 

 

 

 

 「 あるヨギの自叙伝 」を1章から順々に読んでいく際に

 

 

  眉間を涼しくし、意志の力が出やすい状態にし、お臍より下の腹( 腸 )で自分と向き合う感覚にした後

 

  1章から順々に読んでいきながら、読んでる最中に、ピンときた台詞やあなたが思ったこと、感じたこと、思い浮かんだこと

 

  嫌悪や共感、消極的で悲観的・・かつ否定的な感情・・あるいは嬉しくワクワクした積極感情を含めて

 

ピンときた台詞や心の中に思い浮かんだ自身の台詞や動いた感情を台詞にしてA4の紙にキーワードにして簡潔に淡々と書いていくだけです。
 ( 眉間を伸ばし、涼しくし、下腹で自身と向き合うというのがコツです )

 

 

 

これだけで自分自身を知るきっかけを得ることが出来、それにより自己の癒しが起こり自身を、あたかも他人のごとく見つめ俯瞰できる力も培うことができます。

 

 

なお、下腹で向き合うようなつもりになるとなぜよいか?と申しますと・・脳はうわべだけの満足を求め、己惚れも強い・・偏見塗れです。(;^_^A

 

 

それに対して、お臍より下の、下腹( 肚意識 )は、在るがままで、賢いからです。

 

 

眉間を涼しくし腹感覚を大切にして、どっしり鎮まった腹で読んで下腹で感じるようなつもりで読んでいくうちに、これまで蓄積したものが、どっと噴出し、嬉しさや楽しさ・・切なさ、不安等いろんな感情が湧いてきたり、嫌悪や拒絶、疑念も含めて湧いてくる場合もあると思いますが

 

それも科学者的態度で淡々と書いていきます。

 

 

 

こういう作業をすることで、一般的には難しい自分自身の欲や関心、湧き上がってくる感情・・日々の振舞いを透き通った水晶のようなものに照らす形で
客観的に掘り出し、自分自身(の振舞い)を静かに分析することが出来るのです。

 

 

 自身のこれまでの生き方や自分の欲望、心の反応の仕方、使ってる言葉とヨギの心の発露や意識状態・・欲望、使ってる言葉・・問い・・

 

心の動き方とを自然に対照させることになり・・

 

 自身の心の傾向や何に心が向きやすいのか?
 時間の大半を使って何を欲し何を意識して考えて過ごしてる傾向があるか?知性や感情をどう働かせてるか?
 どういう振舞いをしがちか?等を一歩引いた視座から知ることが出来ます。

 

 

( 中立公正に、科学者のようなつもりになって、決してジャッジせず眉間を涼しくし、おへその下あたりで感じ考えるような気持にして )

 

   そうして、共感や新鮮な驚きだけでなく嫌悪、執着などが湧いても、それをただ淡々とA4の紙に、そのまま台詞等として書いてあげる。

 

 

そうして、淡々と読みながら自身の心をモニタリングしていく・・

 

 読みながら、どういう感情が、どういう方向に働くか?自分は、どういうことを習慣的に思っていて、どう振舞ってたか?等を解読し読み取って淡々と気づいて書いていくだけで

 

 ああこの「 ●● ●●という名前の私という人( 本人 ) 」・・この人は、こういう人物なのか?というのが高い視点でわかる。

 

 

そうすることで自身の自我の働きを知り見つめ直し心の葛藤や不安・・疑念を鎮め癒すことに繋がる。

 

 それによって、大きな力を得ることになると私は見ています。

 

 ※ジャッジして、自分を裁いたり責めたり拒絶したりしない・・波風立てず眉間を涼しくして淡々と下腹をセンサーにして・・というのがコツです。

 

 

 

 

 なお

 

 

 

こういうことをやるのは少し躊躇があるかもしれません。

 

しかし、想像してみてください。 ご自身を分析できる力をつけて
たまに思うことではなく、習慣的に絶えず思っていることを( 水晶のように照らして )炙り出し、あからさまにできる。

 

 

それに

 

( こういう書で自らの習慣的に思い続けていることとかを照らすことで )
欲のバランスをとることが出来、いろんな欲を高い視点で見る力が養われるのですから。

 

 

PS さらに、内面化させたい場合は、この本の読み方としてはレクティオ ディヴィナという黙想的な静かなる読書法を援用するのも良いです。

 

※興味のある方は´レクティオ ディヴィナ やり方´などでググるとよい

 

 

 

 

次へ( 「 あるヨギの自叙伝 」と瞑想 へ )