この本は求道者、探求者向けでMyお薦め本ではあるけど・・

 

現代の常識から言っても常識外な内容です。

 

 

世界的名著で多くの方に内的革命をもたらした本なんだけど
ビジネス・ルートからこの本に興味を持った方で、こういう分野に免疫のない方は
ぶっ飛んだ内容なので、ひいてしまうって方もいるかもしれない。

 

そもそも論として日本人向けではない。

 

私がこの本を読んで感じたパラマハンサ・ヨガナンダという御方の「使命」から照らしても

 

この本に書かれてる内容は
アメリカを中心としたキリスト教文化圏で生活している方々のために
執筆されたことを匂わせています。

 

 

バガバッド・ギーターやヨガ・スートラなどのヒンズーの聖典からの引用があるのは
ヨガナンダはインドの方だから当然として
( これも日本人にとって馴染みにくいものですが )

 

キリスト教文化圏向けに書かれてるのでバイブルからの引用も非常に多いんです。

 

 

 

世間一般のコンセンサスを逸脱したエピソードについては
いったん保留(棚上げ)にして読んでも

 

日本人には、そこに一つの壁があって

 

この本はキリスト教の風土と思想圏でバイブルを毎日の生活で読むのが当たり前
慣れ親しんだ生活風土と土壌があって、
さらにそれを超えた段階を標榜し、見失った尊い稟性を取り戻す形のライフスタイルを目指す方に向けて啓発と探求を促す形で執筆されてるので

 

国民性と歴史背景として、仏教が国教化されたこともあり
土着の神道文化と習合して儒教思想も取り入れて、そのまま鵜呑みにするのではなく
より扱いやすい形にして発展させ
明治維新から昭和の敗戦までは神道の国教化を標榜してきた精神風土がある日本人にとって
キリスト教に代表される一神教と仏教、儒教、神道では説いてるとこのものが、そもそも違っています。

 

そういう背景から

 

日本人にとって違和感が大きく馴染みにくい・・という方は多いかもしれません。

 

 

日本史から俯瞰しても仏教の方がキリスト教よりも1000年早く
アジアの中国経由で渡来系の人によって導入された事実があります。
儒学に至っては、仏教よりも早いと言われています。

 

なかでもインド発祥の仏教は6世紀半ばに当時の天皇をはじめとした皇族や貴族に受け容れられ
やがて民衆にも広まって、何十代、何百年もかけて土着の神道と習合しながら
江戸時代は儒教精神がバックにある朱子学も盛んになり
それらを日本的に上手く吸収統合し
人々の拠りどころとなってきた歴史的経緯があります。

 

 

風土や伝統的なものを含めて

 

日本においては神道、儒教や仏教のほうが1000年分の歴史の厚みや重さがあるでしょう。

 

 

私の場合は、大学時代に高校時代よりは熱心に勉学に励みましたが

 

大学の講義(授業)では、あまりにも皮相的で物足りなくって

 

工学系だったのに関わらず形而上の探求も当時やっていて、その一環で

 

バイブルもよく読んでいたんです。

 

そういうなかでバイブルの比喩の解釈に頭を悩ませてきた探求の背景もあるので
「あるヨギの自叙伝」を読むことで当時解けずにうやむやになっていた「 ヨハネの黙示禄 」等の聖句を
現代人にも分かる形で、あっさり解いてくださっているものも発見できて感動し嬉しかったわけですが

 

 

 

そもそも西欧の方たちとアジア・・東洋人では民族的な集合無意識的なとこの背景が違うように思います。

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダが東洋人のために「 あるヨギの自叙伝 」を執筆してくださっていたら入り易かったのかもしれませんが
使命的なものが恐らくあって、そうはなってないので・・・

 

 

そうなってくると

 

西欧の方向けに語られた「あるヨギの自叙伝」はバイブルからの引用が多用されているため

 

バイブルを日常生活の中で当たり前に読んで

 

聖句を生活に取り入れ内面化させようと奮闘してるという生活背景がない方の場合は

 

 

なおさら違和感を感じるだろうというのは想像に難くないです。

 

 

 

それに・・

 

 

( 「それを言ったら、元も子もない・・お終いよ・・」

 

という指摘になってしまうのですが )

 

 

この本を読んで、頑なな心が解かれるきっかけになるという

 

内面的な凄い奇跡が起こったとしても

 

 

( これだって凄い奇跡だと思いますけど )

 

 

読んだ方が、いきなり、この本に書かれてるように

 

 

「あるヨギの自叙伝」で紹介されている
主要登場人物たちが知覚し感じるような感じ方が即座に出来て

 

 

肉体感覚や不要残留本能の影響から逃れる。

 

詳細には

 

肉体由来の快楽渇欲の執着を離れ

 

 

嫉妬や憎しみ、怖れ、怒りなどを、よく統御し

 

高い道徳性や純潔性、倫理性を帯びた生活スタイルを貫き通す・・

 

宇宙や世界の観方も、「あるヨギの自叙伝」の各章を彩る主要登場人物のごとく
心身統一法で扱ってる領域よりも、さらに高い次元で接触が可能なのか?というのがあるし

 

 

そもそも論として

 

 

世の中に人は多いけれども(「あるヨギの自叙伝」に述べられてるような内的世界)を含めた
深い内的領域に強い情熱を持ち、自己探求の努力を傾けることのできる方というのが・・
この世の中に一体全体どれくらいの割合でいらっしゃるのか?という話になってくると思います。

 

パラマハンサ・ヨガナンダのごとく、幼少の頃から内的求道心が苛烈で

 

形而上の分野に尋常ではない情熱があって

 

ある高級感覚が、幼少の頃から拓かれていて

 

世界や宇宙に対する感じられ方が、かの方のごとく崇高で

 

その生活が、かの方のように素朴かつ純粋で
誘惑に負けないというような方が、世の中に満ち溢れているとは

 

冷静に世の中を見渡した際には、その観察上、私には到底思えない。

 

 

実際生活を含めて、このような生き方に´憧れ´を抱き

 

ただ憧れるだけでなく強い気持ちで貫き通すことが出来る方というのも

 

天風哲人が定義為されている不要残留本能や感覚の誘惑っていうのは
非常に根深いものがある関係で世の中に多くいない氣がするんです。

 

そもそも、こういう生き方に迸るような強い情熱や関心、強烈な思いを幼少の頃から抱いて
そういう方面に桁外れの求道と探求をまっしぐらに貫ける方も稀でしょう。

 

形而上の探求のことに寛容な風土と伝統があると思われるインドの学校においてすら

 

この本の執筆者のヨガナンダは、変わり者のレッテルを貼られています。

 

あなたは違うかもわかりませんが・・世の中を俯瞰したら・・
科学文明は長足の進歩を遂げたけども内的な霊性面は拓かれてないとも言えなくもない。

 

 

長い眼で見たら、この生き方は実にクレバーな生き方だと思うんですが
 日本の学校教育の関係や社会背景上も
そっと取り組むしかない実情にある・・と申しますか・・

 

日本独特の同調圧力が強い中で、この生き方に身を沿わすのは
恬淡と取り組めばよいとはいえ周りから浮いてしまうんじゃないかと・・ 

 

この本の著者のヨガナンダジですら高校〜大学生時代に、形而上のことに熱心過ぎて
授業もそっちのけにしてたがゆえに´きちがい坊主´という、あだ名をつけられて
周りから浮いていたということを述懐してるくらいですから

 

 

 

 

私だって、もし、こういうサイトに述べてることを、ほんの7〜80年前の戦時中の

 

国家総動員体制時に表現してたなら

 

私なんか非国民と貶されてたはずです。

 

 

さらに遡って江戸時代とかだと、思想や信条の自由という、近代民主主義の精神に基づいて

 

このような自由な探求や言論表現活動をすることは叶わず( 許されず )

 

縛り首になってたことでしょう。

 

今現代の時代では、そういうことはないでしょうけど
そうであっても、こういうサイトで表現するのには割に勇気と慎重さが要るくらいなんで・・

 

 

 

 

 

斯く云う私も「 あるヨギの自叙伝 」はお薦めという位置づけです。

 

お薦めじゃなければ、こんなサイトを勇気をもって
かつビジネス度外視で作成はしてないです。そもそも・・

 

 

ですが薦めるにしろ、そこには条件を付けていて

 

 

 

「 成功の実現 」等の口述書をよく読み込んだり、実践し参究するプロセスで
口述書などにもチラチラ登場するカリアッパ聖者のごときインドの大師とされるような方の
崇高な人格的内容や正確なインスピレーションを含む神秘的能力
その深遠な内面世界や
実際に土の中に埋葬されて一週間放置された後に仮死状態から蘇るという行を幾度も成功させるというような
とてつもない統御力に強い関心を抱き
さらに生命の根源を深く探求したいという熱情を感じるに至ったり

内的渇きを感じるのなら
こういう「あるヨギの自叙伝」のような凄い本もあるよ‥慢心しちゃいけないのかも・・

 

という形の条件付き提示の仕方でして´段階的薦め方´ですので・・(;^_^A

 

 

 

 

物事には順序と段階があるというのを別の切り口でも述べてみます。

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダの説によると

 

 

人間は霊性の目覚めの程度によって段階があるとされています。

 

第一段階は

 

毎日肉体的要求や欲望を燃やし満たすことだけを人生の目的と考えて
食べて、眠って、働いて、子供をつくって死ぬだけという段階

 

第二段階は

 

知能的または技能的活動に欲を燃やし、それを満たすことに満足を感じ
いつも仕事のことを考え、儲けたお金を感覚的娯楽のために浪費するだけ
しかし、なかには、優れた実業家もいて、創造的性質を持っているという段階

 

更に進化すると、第三段階として

 

すでにお金儲けや創造的仕事に熱中する経験を終えて

 

人生はいかなるものかを理解し始め
感覚の誘惑に打ち勝つための自己訓練に励む段階で、この段階にくると
もっと人生を真剣に考えて
「 人間は、自分の欠点や悪習と闘ってこれを克服すべきではないか? 」
「 より高き人生というのもあるのではないか? 」と真剣に考え

 

感覚の誘惑を避け自己の内面を省察して日々を道徳律に照らして正しく行動しようという欲を燃やすようになるのだとか。

 

 

それも乗り越えられるようになると

 

さらに最後の段階というのもあるとされています。

 

 

この仮説が正しいとすると第一段階ですら満たすのは、ある意味大変だし

 

第二段階の進化版が、成功した実業家とかになってくるのでしょうか?

 

これでも一般には相当に高い段階と思われます。

 

そうなってくると

 

 

いきなり最終段階、あるいは、次の高い段階に行きたいと思っても

 

 

不要残留本能の陶冶ってのはとても難しく、突破するのには、様々な感覚の誘惑や
消極感情など深いとこに根差したものを統御するための潜在意識領のクリーニングの継続と
意志の力を積極精神を造るために用いることは必須で

 

成長飛躍には、いこごちのよくないとこを通過せざるを得ず、幾ばくかの痛みを伴うし

 

 

段階を踏む必要があるわけで、揺り戻しなどもあって一足飛びにはいかない氣がします。

 

 

これの例を壮大な歴史からひも解いて挙げるなら

 

 

天風哲人によって定義され

 

陶冶の方法も含めて解明された斬新かつ画期的な不要残留本能の統御が簡単であるなら

 

 

世界的ベストセラーで活版印刷が発明されて以降

 

50億部以上も出版されて読まれてるという

 

バイブルの教えに沿った生き方が簡単にできてもよいはず。

 

 

例えば、バイブルで説かれてるイエス・キリストの教えや生き方に純朴に忠実であったなら

 

キリスト教国とされてる西欧列強の国々が

 

大航海時代に植民地戦略で

 

宣教師の中には純粋な目的で布教した方もいたと思うけれども
歴史はそう語っていない。

 

なんでも一まとめ、一括りにするのは、とても危うい考え方で

 

そうは出来ない複雑多様な面があって

 

平和的共存、共栄の模索の努力の痕跡が見られないと言ったらよいのか

 

原住民の方に最初はスマイルと讃美歌で近づき貿易と商売で儲けましょうともちかけ

 

信用させてから最後は原住民たちを土地から追い出し、
奴隷にしたり、抵抗したら虐殺する等ということが厳然とした「歴史の実態」として刻まれてなかったはずでしょう。

 

 

 

「あるヨギ」になると更に高い内的段階を標榜してまして

 

各章を彩る主人公級の主要登場人物の方々は

 

職業自体は、まちまちで普通の公務員だったり
小さな塾の経営者だったり・・

 

なかには出家してたりする方もいるわけですが

 

肉体由来の感覚的な事や物質的な事、世俗的な事に対して無頓着で

 

肉体を聖別し祈りや瞑想によって感得し耕した慈悲心によって他に尽くす生き方を貫いて

 

恬淡、実意丁寧に生活してることが彷彿されるエピソードがふんだんに盛り込まれている印象が強くあります。
巷間の´この世的な価値観の´成功哲学からすると、あまりに乖離がある。

 

 

 

そうなってくると

 

誰にでも手が届きやすいものなのか?というと

 

 さすがに甘い内容の本じゃないと思ってます。

 

 

 

この本読んだらキリストの行った奇跡とか
3日後の復活とか・・

 

バイブルに書かれてあるとおり

 

イエス・キリストの「肉体」が一時的に生き返った

 

と信じるのは、いくら何でも非科学的で無理がある・・間抜けな人が信じるものだ・・
という考えを抱いているクリスチャンですらも可能性を含めた信憑性が出て

 

より身近に感じられイエス・キリストへの思慕や敬愛が更に増すかもしれないし
お釈迦様の神通力・・天眼智證通や他心智證通などが荒唐無稽なエピソードではないということを体感し
仏典の外典の親密度や信ぴょう性が増して、その方面の信仰が強まるかもしれない。

 

この本は、そういう凄い世界を垣間見ることが出来るわけだけども

 

 

バイブルに馴染んだキリスト教を信奉してる西欧の方も
いきなり、この本に出てくる聖者のごとき感じられ方で世界を感じられて
この本の各章で紹介されてるように肉体を聖別し物質や肉体に頓着のない聖者、聖女のごとき生活ができる。
はたまた毒を飲まされても何ともないなんていうことが日常茶飯事の当たり前というような
そういったことが日々の生活の中で、普通にできて、そういう生き方を貫くことが出来る方なんて、そうそういないのかもしれない。

 

 

 

いきなり、この本から入って見習おうとしても

 

あなたは違うかもしれませんけど

 

精神風土や生活背景が違いすぎて

 

( 一般的には )遥か彼方を見つめるような茫洋とした気持ちになるばかり

 

不要残留本能という進化のプロセスで、今現代では不要なるものが残留していて

 

これは根深いものがあって、整理をして

 

少しずつ陶冶し削って習慣化し生活化していくメソッドが無ければ

 

思ってはいけないことを思わせる不要残留本能が我知らず働き悶えやもつれを生じやすいし

 

自己陶冶には忍耐を伴うので

 

体も心も生活もついていかない・・これはこれ、自分の生活は生活ということになる可能性の方が高いと思っています。

 

 

更にツッコムなら

 

私(の体験上の見解)では形而上の事を認めた上でも

 

地上に肉体をもって生きてる以上・・肉体を錬磨したり
肉体を少しずつ訓練的に積極化することや

 

物質的感覚的なことを経験することで得られる貴重な体験も見えざる霊性を向上させ磨くのに貴重で大事というスタンスなのですが

 

「あるヨギ・・」に登場するヨガナンダジ以外の各章を彩る主人公級の方の中には
小さな塾の経営者、元鉄道員、科学者、郵便配達員、園芸家、公務員とか
職業は、まちまちで登場しますが
お読みいただいた方には自明のとおりインドで聖者とされてるガンジーとか
カトリックの聖女であるテレーゼ・ノイマンとかも登場してるのはご記憶の方も多いと思います。

 

 

で、職業関係なく「あるヨギ・・」に登場する脇役以外の主役級の方々は

 

「 肉体 」という畑からの収穫を既に終えてしまったが故なのか・・

 

根深い不要残留本能の力が、どういうルートで削がれたかわからないけども削がれて

 

肉体(および神経系統)を聖別した生活をしていて
肉体や物質的な事に対して無関心、無頓着で物質的な事に絡まる欲や感覚的欲望にも
全く・・ほとんど頓着なく超越してると申したらよいのか??
関心がない・・あるいは、世俗の中で暮らしていても
水と油のように生活が俗世に染まらないという方ばかりです。

 

 

そうなってくると一般の方にとっては

 

雲をつかむような茫洋とした気持を感じて宙ぶらりん

 

ということになってしまう方のほうが圧倒的多数ということになる気がします。

 

 

 

だけども、前述したように天風哲人の心身統一道がバイパスするとアクセスの可能性が微かに出てくる。

 

 

( バイパスしても難しいことには変わりないし、別にこのルート以外にもいろんなルートがあるとは思うのですが・・・ )

 

 

いろんなルートのうちでも心身統一法を習慣化しバイパスすることで無難な形での実生活への接続の微かな可能性が見えてくるように思うんです。

 

 

 

 口述書実践ルートで生命要素が生命に豊富に導き入るのを遮ってしまうものを駆除し

 

 

 

意識領に飛び出て、温めていると好ましくない思いになり、放置してると過ちをもたらし
生活に悪い結果をもたらし長い目で見て本人を苦しめるもの。

 

 

こういった消極的観念要素を

 

 

心の奥座敷の特別なお手入れを日々施すことで

 

地道に洗い清めることに熱心に励みつつ

 

 

これが意外に重要と思いますが

 

目に触れ耳にする( 視たり聞いたりするもの )をしっかり選んで取り締まって監督し

 

猥雑なものや氣を散らすものから離れる恬淡とした生活を心がけて

 

 

 

生活が恬淡として心に清々しさ、明朗さ、強さが培われた土台があるなら

 

 

( このルート以外でもルートは沢山あると思うけども有力なルートの一つとして )

 

生活に無難な形で少しずつ織り込める僅かな可能性が見えてくる気もします。

 

 

 

 

 

 

その反面・・このルート以外で肉体を無視したり
肉体に対する特別なトレーニングもなく

 

観念的なスピリチュアル・ルートから入ってしまったら

 

 

 

肉体感覚の統御だって一筋縄ではいかないし

 

本能心を含めた原始的感情ってのも統御が難しいので

 

更に輪をかけて実際の生活に根を下ろすことが困難で宙に浮くと申しますか

 

「 ( 宙に浮いて)絵に描いた餅 」になる可能性が高い気がします。

 

 

 

その一事例を挙げるなら

 

 

例えば・・経営指導の神様としてコンサルタントとして名をはせた船井幸雄先生
経営コンサルティング業界で初めて上場するまでの会社を築き
そのご生涯で400冊近い著作を世に送り出した事でも有名で
私も生前お会いしたことがあります。
思ったより体が大きくなく頭のことは別にして体全体的にテカテカしたイメージが私の印象の中にあります。

 

 

 

その船井先生は「 二つの真実 」という本の中で生涯で何十回も読んだ本として

 

「ヒマラヤ聖者の生活探究」(ベアード・ボールディング著、仲里誠吉訳)

 

「あるヨギの自叙伝」(パラマハンサ・ヨガナンダ著、森北出版)

 

「日本の光(弁栄上人伝)」(田中木叉著)、(財)光明修養会 )を挙げてます。

 

 

本を出すまでもなく実際に会って交流し縁がある方には地味に薦めておられたみたいです。この三冊を・・

 

 

 

 

ですが晩年2007年ごろからは

 

 

「 私は、これまで恵まれ過ぎてて天風先生のお気持ちが全然わかってなかった・・」
「 天風先生の偉さが全くわかってなかった 」

 

として

 

最晩年に

 

「クンバハカ」のおかげで自分の至らなさを知った。

 

というコメントを記事で遺しておられるんです。

 

 

 

 

何百冊も成功指南書を執筆しスピリチュアルのことも相当に研究し、その分野の人脈も多彩だった
あの御方ですら、そうなんですから。

 

 

そうして

 

ご存命のときに綴っていた日記にも

 

 

 

 

私は中村天風をマスターすることが私の残された人生の課題だと思えてきました。
これから、日記を通して、皆さんとともに勉強できればと思います。

 

という言葉を遺しておられるんです。

 

 

最晩年に語られたこの言葉(コメント)は重いと私は思っています。

 

 

 

しかし心身統一法の各種メソッドがバイパスすると微かな可能性があるんじゃないかと観ています。

 

 

 

 

なお

 

 

「 あるヨギの自叙伝 」に心身統一法がバイパスすることで上手く行った方も事実いるんです。

 

 

 

例えば沖正弘氏・・この御方は戦後日本におけるヨガの草分け的指導者で

 

ヨガブームを牽引した沖ヨガで有名な方ですから

 

知ってる方も多いですよね。

 

沖氏も、この「 あるヨギの自叙伝 」という本に強い影響を受け
ものすごい感化をされたと言われていますが

 

 

天風先生の行法を真摯に実践し、これを経ることで

 

事実として多くの方の蒙を啓き生活を立て直す・・善導した方もいますから。

 

 

 

 

 

 

とにもかくにも良い木はみな良い実を結びます。

 

これらの書を朴訥、謙って読んで、インドの大師とされる方々の底知れぬ通力に驚きつつ、その深い内面世界に思いを馳せたり、先のようなやり方で、肚に沁み入れることで、意識で抑え込もうとしても決して抑えられない慈悲心や平安感が勃興し結果として生活が恬淡として清明なものになって生活自体が素朴になっていくなら
それは良い実を結んでる証左になります。

 

そうであるなら

 

あなたに合ってるということだと思うので、そういう生活の実りにおいて、どんなか?
ご自身でテストし確かめていかれたらよいのではないでしょうか?